仏教は世界三大宗教の一つか
自分がこれに疑問を持ったのは、ほかならぬあのAUM真理教団「地下鉄サリン事件」が
きっかけでした。
耳慣れない「ポア」とか「アーチャリー」などの特殊用語が当時紙面を踊ったものですが、
何れも梵語(サンスクリット)またはチベット語から仕入れて来た仏教のキーワードを(大蔵
経の様に漢訳せず)片仮名に替えた代物、その解釈の仕方は問わないとして。
坊主の癖に結婚して子供まで作り(戒律で言えば餓鬼畜生道)その餓鬼に住職を継がせ
る、浄髪もせず七・三分けの頭で(甚だしいのになるとパーマ頭で)平然と読経しにやって来
る葬式屋、これが歴代寺門の哀れな成れの果てなのは周知の通りで、仏教本来のあり方と
如何に懸け離れているかは本人共が一番よく判っている事と思います。
それに比べこのサリン教団は遥かに仏教の真髄を体現した、血縁や地縁を捨て去って
既製社会を超越する、まさに現代に甦った原始仏教の信徒たちの後光を感じさせられ、催
眠術にかかった有名人・文化人・大学教授の名前は吉本隆明、中沢新一など枚挙に暇も
ないほどです(尤もサリン事件以後、AUM教団の正体がオカルト性すらない麻原のハーレ
ムに過ぎず、「世襲化」の堕落が早くも始まっているのを見て取った連中は蜘蛛の子を散
らすように無関係を装い、中沢氏など自分の縄張りチベット密教とAUMの繋がりを否定す
るのに躍起となっていた)。
しかし敢えて今、坊主共を含めた世の仏教屋たちに質したい。
(既製仏教に骨絡みのひろさちや氏辺りには特に)
ーーーAUM教団の言動に仏教の教理そのもの以外何が認められるかと。
仏教屋たちがAUMを唯の人殺し集団だと決め付ける資格が果たしてあるのか、輪廻の
如きインド人の妄想をベースにした宗教を奉ってきたお前たちが。(この有害極まりない強
迫観念については# 9で既に叩いてあります)
もし輪廻説を世界観として採用するなら人を殺す事は犯罪ではなくなる、必ず此の世に
生き帰って来るからだ。それどころか早く次の段階に(何の段階か知らないが)転生させて
やるというので功徳にさえなる。ーーーこれが「ポア」の思想であり、仏教原理「金剛乗」か
ら紛れもなく導き出せる思考回路であります。
地下鉄内に毒ガスを撒き散らすのが功徳を積む最たるものだとの信念が仏教と関わりな
いかの如く知らぬ顔をするのは、苛もAUMと似た、AUMより安直な形ばかりの修行(古参
坊主にオカマを掘られながら)の末住職に収まった坊主共に許される事ではありません。
そこで(ここから本題に入りますが)麻原自ら称している通り、AUMの源流はインド=チ
ベット本来の仏教にある、最低限これだけは認めてやらねばならない。
ならば何故、史上随一の仏教国チベットの人々が陥っている現状ーーー北京の人殺し政
府によって民族絶滅の危機にあり、ナチのユダヤ迫害も生ぬるいものに見える半世紀を耐
えて来たラマ教徒たちーーーAUM教団には師匠に値する人たちを救おうとする姿勢のカ
ケラも見せないのだろうか。
サリンを撒くならチベット人民と密教の敵である北京にしろ。と自分なら言いたい所です。
北京の非人道的・非合法政権こそ「ポア」で浄化すべき道理があろうというもの。
チベット密教に入れ込んでいる中沢氏にもこれは訊いてみたいし、わが国の仏教系団体
会長・凡ての宗派の本山座主・仏教大学学長も答える義務がある様に思えます。
実際、チベット民族の人権のために交渉したり北京に抗議行動を起こしているのは全部
キリスト教国(極小国家も堂々とそれに加わっている)の政府・団体・国民ではないですか。
同じ仏教国民は北京怖さに見て見ぬ振りしか出来ないのか。
この一事だけをとってみても、キリスト教が仏教など足元にも及ばない卓越した宗教であ
る証明になる所以です。
イスラム過激派「タリバーン」に仏教遺跡パーミヤンが破壊される時も、体を張って止めよ
うとしたのはキリスト教国の人間だった訳で、そもそも仏教の聖地ガンダーラがイスラム地
区と化し、仏教世界の中心であるヴィクシマラー寺院やナーランダー学院(玄奘三蔵法師
も留学した)が滅亡したのもガズニー朝以下イスラムののインド侵攻の結果起こった事なの
です。
キリスト教の聖地エルサレムがセルジュク=トルコ族に荒らされたと知ったヨーロッパ人は、
国を問わず最下層の農民に至るまでが怒って立上がり、十字軍という行動に出ました。
最終的に失敗に終りはしましたが、その後の西洋の行動力の源となり、歴史を自ら切り開
き創造して行く誇りこそが特徴である西欧人がその中で誕生したのです。
東アジアの仏教諸国も仏教の聖地を取り返すため「卍軍」を組織してインドに進攻するべ
きでした、少なくともこれが100%不可能だったとは思えません。しかし聖地天竺奪回の試
みはおろか、想像上の合同軍さえどこの国の文書にも残っていないのです。 国民一人一
人に優れた能力が欠けていた訳ではない(日本人も支那人も天竺が荒廃しつつある事さ
え知らず、西方浄土・祇園精舎は空想の中だけで実物の印度には無関心)。ただ仏教とい
う宗教にそれだけの価値も力もなかった、端的に言えばそういう事です。
仏教屋の中には宗教の優劣はそれでは決められない、仏教の平和志向と深遠(に見え
る)哲学に高い価値を認めよと主張する向きもあるでしょう。
しかしそれでは「世界」は何も変わりません。
ニヒリズムと三無(無気力・無責任・無関心)の極みに過ぎぬ仏教哲学からは、人間として
の意志も守るべき価値も生のダイナミズムも生れて来ない。
あらゆる時代を通して仏教は、自らキリスト教やイスラムの様な歴史を動かす原動力には
なり得ず、文明を維持する屋台骨(パラダイム)になる事もなく、時の権力が保護すれば栄え
排斥すれば衰えるパターンを繰り返すのみでした。
ロ−マ帝国の迫害に耐え切り最終的に国教化させた力、ソ連による軍事的占領を遂に跳
ね返した英雄的ポ−ランドカトリック教会の存在感は爪の垢ほども仏教にはありません。
中東を起源とするこの二大宗教と並べては仏教が惨めになるばかりです。
宗教としての命脈も殆んど尽きかけており、特殊文化財として生き長らえる事を目指した方
が国民全体にも利益を齎すでありましょう。 合掌・・・。
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