「事大主義」という言葉があります。
韓鮮民族が「中華」国家に只管平伏し、属国民として日夜粉骨砕身を以て仕える事を自ら表明したものです。
日清戦争前の「事大党」が清国を「天朝」として奉り、絶えずその顔色を伺い、己を犠牲にしてまで清の利益に尽くす李氏朝鮮の伝統に忠実な、遅れた一派を形成した歴史的事例を指すことからも明白であり、清の前は明、その前は元、同じく金、遼、宋、唐と支配王朝が変わる度に忠節の対象を移動させて来たのが半島民族の習いでした。
元寇の遠征軍に高麗兵が重要な構成員として加わっていた周知の通り、男を出せと言われれば使い捨て兵に差出し、女を出せと言われれば後宮の「慰安婦」として献上するのが天朝の恩に報いる当然の属国民の義務だったのです。
日清戦争での日本の勝利は「大韓」独立の大きな前進(国名に大の字を付けること自体が革命的でした)を齎し、それは日韓併合によって磐石なものとなりました。 絶望的なまでの文盲率を改善するため日本統治下でハングルの普及が計られ(世界で最も合理的な文字だと自画自賛する彼らですが、それまでは諺文として貶められていた、オリジナルも日本の可能性あり)、生産性の低かった農地を改革し泥水を啜っていた極貧層の生活条件は著しく向上、港湾・道路の整備、発電所の建設によって産業らしき産業の何もなかった半島に商工業が営まれ、物々交換の経済から一気に近代化へと歩み始めた、それは世界史上にも稀な損得を度外視した日本の誇るべき貢献の然らしめたものであります。
その恩を忘れたかのような最近の南北朝鮮の言動ですが(例外は金完燮『親日派のための弁明』)、それに就てはまた別の機会に譲ると致しまして、取り敢えず朝鮮半島住民の意識を中華から完全に独立させるのが民族政権の役目だと考えた、それは漢字を全面的に廃止しハングル化に踏み切った国語制度に表れております。
漢字廃止は自動的に「事大主義」を克服し得るか、は難しい問題です、が日本の一部に最近現れた「事大主義もどき」の言論を前にすると、韓国朝鮮人の勇断は見習うべき様相を帯びて参ります。
その一例が書家石川九楊氏の唱える「漢字の到来まで日本人は概念を持たなかった」説、謂わば文明的属国性を極端に強調する漢字崇拝です。
また日本語は二重言語であり、漢字から受け取った概念を無理やり訓読みさせて語彙を作った上、感覚を表現する和語も実は漢字概念の借り物だとまで強硬に主張しております。
己れの職業柄止むを得ないとは申せ、特定国の一文化を偏愛する余り、見るも無残な非常識に陥ってしまった例です。
文字を持たない新大陸やアフリカの原住民でさえ、宇宙や時間について精密な概念を所有していた事は証明されております。
まして漢字渡来以前から部族社会を超えた国家形態を有し、恐らく固有の文字を(渡来人らに隠滅されたと言われる)作り出していた大和民族に、人間本来が持つ先験的概念が欠けていたとは、何処かのカルト宗教の教祖でさえ敢えて口にしない世迷い言ではないでしょうか。
「#6 使い捨て言語としてのEnglish」に述べた英語の二重性はフランス系ノルマン人に国土を占領支配された結果であるのに対し、日本の漢字採用は飽くまでも選択であった状況も一つのポイントですが、幼児期に覚える日常言葉と勉強努力で身に着ける抽象概念との二重性・乖離性は、日本人に限らずあらゆる言語民族に共通の現象であります。
自分という一存在の内外を位置付ける普遍的な体系、焦れったくとも共有化できない情操など、人間が抱える自他性の相を余す所なく表現出来る言語など果たしてこの世界にあるのでしょうか、ましてや文字如きに。
その意味で漢字と北京・広東等方言の関係こそ二重性の最たるものであり、漢字における文字数の際限なきが如き増殖は、棒や線や点をいかに捻くり回しても生の現実を書き表わせなかった漢民族の悪戦苦闘の残骸を物語っております。
チャイニーズ側は、日本人が使う漢字の生みの親だと最近ますます言い募る様になって来ました、つまり曾ての大国意識を取り戻し経済面での遅れを埋め合わせたいのでしょうが、「中華」が近代化するのに欠かせなかったもの、それは幕末・明治の日本人によって漢字化された西洋概念ーーー立法・行政・司法・権利・義務・科学・原子・物理・論理・哲学・分析・憲法・自由・社会・金融・資本・保証・銀行・証券・条件・抽象・経済・そして「概念」など例を挙げれば限がないーーーを手当たり次第に導入した学習に負うところ大であるのを忘れてはなりません。
北京発行の新聞を広げて見れば、これら日本熟語が紙面を埋め尽くしているのが一目で分ります。
恐らく彼らはそれを指摘され「わが国は飽くまで実用性という利点で採用したのだ」と返答する筈です。
そこでわれわれも「1500年前に漢字を採用したのは記号として便利に見えたからだ」と突き放すのが正解、但し使ってみて画数の多さや煩雑さ等の欠陥が判明したのでもっと便利な仮名を作り出し併用する事にしたのであると。
つまりはお互いにプラグマチックな流れとしての相手文明の浸透に過ぎず、優劣の問題ではない、当時天竺の梵語(サンスクリット)も間違いなく輸入されていたのですから、其方を採用する選択肢もあった訳で、現にタイ・ビルマ・チベット・ラオス等は漢字ではなく梵字から自国文字を生み出したのです。
そもそも汎ゆる国は無数の文明の通り道であります、例えば「漢方医学」とされているのもインドやチベットの人々の血の滲む努力と人体の研究が編み出した医療体系のほんの一端に過ぎません、鍼灸や針麻酔もインドがオリジナル、太極拳・気功の元は密教・ヨーガであり、医学書「アーユルヴェーダ」は全東洋医学の要なのです。
チャイナの役割はそれらを日本に伝えるルートになったという一事に尽きます。
何でも漢字に書き換えなければ気が済まない漢族の習慣が、外国渡来の文明まで自国産と錯覚し、いつの間にかパクって(悪く言えば)名義を偽造するのは、現代の海賊版の横行にも繋がる民族的欠陥であります。
その割に、漢字を「発明」した漢民族が漢字を使いこなせているかと言えばまるで逆、漢字を持て余しているのが現状であり、日本人の方が遥かに上段の漢字使いであるのは上記和製熟語を見れば明らかで、かの『論語』も日本に留学し日本語訳を読んで初めて理解できたと申しているほど、漢文古典は支那人に意味が通らない一種の暗号であるらしく、その原因ははっきりしており、つい最近まで人口の九割近くが読み書きの出来ない文盲だったチャイナに対し日本は江戸時代以後の識字率は半数を超えていた、漢字が読める人間の数が両国間で大きく差が開いていたのであります。
アルファベットを発明したのはフェニキア人ですが、それが伝わったギリシアにおいて文明の利器となったように、またアラビア数字がその名の通り発祥の地アラビアから流出、西欧諸国がそれを用いて高度な数学・物理学を構築したように、漢字は日本においてその本来の価値を存分に働かせているのであり、チャイニーズは寧ろそれを感謝するべきなのです。
曾て礼儀・礼節の地、大人(たいじん)の国と日本人が美しく想像し、本人たちもそう思い込んでいた漢文明は、2004年夏アジアカップの惨状によって跡形もなく消え去りました。
漢字は既に奇形的簡略化とローマ字化推奨で死に瀕しており、罵声語と猥褻語しか残らないと懸念されております。
果たして漢文明の痕跡は何処へ行けば見つけられるのでしょうか。
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